Nothing is permanent.

事業売却、離婚を経て、小さな自分と向き合いながら旅に出てます。

インドハンセン病から考える差別について

インド 西ベンガル州

 

ハンセン病コロニーの自立支援活動を行なっている

NPO法人「わぴねす」

http://wappiness.org

 

「わぴねす」は社会から差別と排除を受けている

 

ハンセン病コロニーの人々が抱える諸問題を

 

ワークキャンプ事業部、就労支援事業、

 

教育支援事業、インド雑貨やさんなどを通して

 

解決をしていこうと活動をしている団体だ。

 

 

 

ちょうど、友人が理事になったこともあり、

 

今回、私はインドで活動をしている

 

代表のえりこさんと1週間ほど

 

行動を共にさせてもらい

 

 

ビシュナプールコロニー、

 

マニプールコロニー、

(コロニーとは定着村という意味)

 

そしてバラブンにあるNGO団体、

NGO Indira gandhi leprosy foundation、

NGO FPSA

 

などを訪問しながら

 

それぞれの取り組みの仕方や

 

違いなどを見させていただいた。

 

 

 

ハンセン病とは末端神経を犯す感染症で、

 

皮膚の感覚がなくなり、筋肉が硬直してくるため

(腕や指が曲がって動かなくなるなど)

 

指先などの感覚がなくなってしまうから

 

火傷や怪我を引き起こしやすく、

 

壊死して切断せざる負えなくなるケースがある。

 

昔は治療法が確立していなく、

 

ほとんどの人が外見に著しい後遺症を

 

抱えることになり、差別の要因になった病気だ。

 

 

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 (NGO Indira gandhi leprosy foundationのホスピタルにて撮影)

 

身体的影響やダメージだけでなく、

 

表面的に分かるものだから

 

周りからの差別、家族との離別、社会との分断・・・と

 

感染者は幾重に苦しむことになる。

 

 

 

 

私はこの「差別」と不平等の始まりは

 

私たちが当たり前に持つ「不安」から

 

だと思っている。

 

 

ハンセン病患者を見た時に

 

ハンセン病の知識がない第三者は

 

「もし、自分もそうなってしまったらどうしよう」と

 

自分ごととして捉えることで不安を感じ、

 

その不安から解消されたいから(決別したいから)

 

線引きをして差別をする。

 

 

 

もし、私がハンセン病について

 

解明されてない時代に

 

ハンセン病の人と出会うことがあったら

 

「私は差別をしない」と言い切れるだろうか・・・。

 

きっと同じように差別をして

 

しまうのではないか・・・と思う。

 

 

 

人は不安に弱い生き物で、

 

だから分からないことや、

 

解決出来ないこと、

 

理解が出来ないことを

 

「神」という存在を作り出したり、

 

死後の世界の物語を作ったりして

 

「安心」したいのだと思う。

 

 

 

ハンセン病もまだ解明されていない時は

 

業病や天啓病など言われていた時もあるしね。

 

(だからその人の人格否定、家族を含めた差別に

 

繋がっていった経緯もある)

 

 

 

全ての始まりは人間の不安からきている。

 

私たちが差別を選ばないようにしていくためには

 

私たちの心の中にある不安が

 

小さくならない限り無くならないと思った。

 

 

 

 

不安だからこそ、目に見えやすいものだけで

 

判断を全てしてしまったり、

 

線引きをすることで自分を安心させようとする。

 

紙幣、物資、情報・・・・

 

経済だって全部そう。

 

 

障害、差別、マイノリティ・・・

 

社会構造だって全部そう。

 

 

では、どうしていったらいいのか

 

私なりに考えてみた。

 

 

 

一つは自分の中に「不安がある」ということを認識すること。

 

不安から差別を生み出してしまう

 

愚かな心を持っていることを

 

自覚すること。

 

これ、忘れがちだけど

 

私たちは認識し続けなければいけない。

 

 

 

二つ目は

 

金子都容書「ボランティアーもう一つの情報社会」の

 

中に書かれていた

 

自発性パラドックスに向かうまでの

 

バラネラブルの話がヒントになると思う。

 

 

 

ボランティアについて書かれていた本で

 

ちょっと遠回りになるかもだけど

 

この話に通じるところがあると思うから

 

引用しながら少し話していきたい。

 

 

 

本の中でボランティアの魅力についてこう書かれていた。

 

 

「ボランティアは”助ける”ことと

 

”助けられる”ことが融合し、

 

誰が与え、誰が受け取っているか

 

区別することが重要ではないと思える

 

不思議な魅力に溢れた

 

関係発見のプロセスである。

 

この相互依存の関係性の中から

 

理解を超える意外な展開が豊かな結果をもらたらす」

 

 

 

これが光の部分。

 

そして光があれば影もある。

 

その後に金子はこう書いている

 

 

 

「それが分かるからこそ、

 

ボランティアをする人、

 

見ている人を不安にさせる。

 

人はコントロールされていないもの、

 

限度が定まってないこと、

 

管理出来ないものを恐ろしいと感じることがあるからだ。」

 

 

(上で”差別の始まりは不安”と

 

私が言ってること同じ感じ)

 

 

 

ちょっと分かりずらいかもだけど

 

ボランティアの魅力は

 

相互依存の関係性の中で

 

生まれるから過程も結果も

 

自分ではコントロールできないし、

 

”豊かな”結果も自分の理解を超えてくるもの。

 

 

だから不安や恐ろしさを同時に感じると言っていて、

 

その矛盾と葛藤を

 

ボランティアをしている一人一人は

 

常に抱えている。

 

そのことを「自発性パラドックス」と

 

金子は言っているんだけど

 

それを踏まえて、

 

 

「ボランティアとしての

 

関わり方を選択するということは

 

自発性パラドックスの中の渦中に

 

自分自身を投げ込むこと、

 

自分をひ弱く、

 

傷つきやすく、

 

他人からの攻撃を

 

受けやすい状態(バラネラブル)に

 

自分自身をした状態で

 

ボランティアとして相手や事態に関わることで

 

窓は開かれ、頰に風が感じられ、

 

意外な展開や不思議な魅力ある関係性がプレゼントされる」

 

 

 

バラネラブ状態の

 

「自分をひ弱く、他人からの攻撃を受けやすい状態にする」って

 

とても不安だし、怖くて、

 

ついつい私たちは常に”窓”を閉めてしまいがちになる。

 

だけどその一歩を勇気を持って踏み出して、

 

自分自身をバラネラブルの状態にする大切さを

 

金子は書いている。

 

 

 

 

これは人や社会への姿勢も

 

同じなのではないだろうか。

 

 

 

 

なのでまとめると・・・

 

私たちが「差別」という行為を選ばないためには

 

 

 

1、自分の中に不安から差別を生み出してしまう

 

愚かな心を持っていることを

 

自覚すること。

 

 

2、勇気を持ち、自分をひ弱く、傷つけやすく、

 

他人からの攻撃を受けやすい状態に自分自身の窓を開け続けること

 

 

3、バラネラブルナ状態のまま、

 

出来事や相手と関わることで

 

関係発見のプロセスが始まる。

 

 

4、そして相互依存の関係性の中から

 

理解を超える意外な展開が豊かな結果をもらたらす

 

 

 

ということだと私は思っていて、

 

差別は差別をされる人だけでなく、

 

差別をする人にも

 

大きな影響があるんだと思う。

 

 

だから、一人一人がこれらを行なっていけば

 

差別される人だけでなく、する人にも

 

素晴らしいプレゼントが起こるって思っていて

 

そしたら社会全体ももっと生きやすく、

 

本来の意味での豊かさを

 

実感できるのではないかな。

 

 

 

 

 

えりこさんは

 

この活動を始めたきっかけを

 

話していた時にこう言っていた。

 

 

「人間って面白いなって思うんだ。

 

人は、人に寄り添って

 

受け入れ合うこともできれば、

 

逆に差別をしてマイノリティを排除する

 

残酷なことも出来てしまう。

 

そしてそれを私たちは自らで

 

どちらを選択するか選ぶことができる。

 

だから良い方を選び続けることができる

 

社会にしたいんだ。」

 

 

私たち一人、一人もそんな未来を

 

今この瞬間から選んで生きていきたい。

 

 

f:id:hikarinonaka-h:20171123210603j:plainえりこのパワーはハンパなくって本当、尊敬する。