Nothing is permanent.

事業売却、離婚を経て、小さな自分と向き合いながら旅に出てます。

チベット人の彼から学んだこと。足るを知る。

インド・ダラムサラ

 

1959年にインドへ亡命した

 

ダライ・ラマ14世チベット亡命政府があり、

 

6千人のチベット人が住んでいる

 

ダラムサラ地区へ滞在して来た。

 

 

 

 

雄大な山々と澄んだ空気、

 

静かな街並みとチベット人の穏やかな微笑み。

 

いっ・・・・癒される・・・・。

 

インドじゃないみたいだ・・・。

 

 

 

 

私はこの小さな町で

 

足の赴くままに歩いたり、

 

寺院に参拝しながら僧侶の方とお話したり、

 

チベット語を聞きながら

 

カフェでまったりしたりと

 

何をしたわけではないけど

 

人々とほんのちょっと話しを交わしたり

 

微笑みを交えたりして

 

そんなことが楽しくて

 

日々を過ごしていた。

 

 

 

 

チベット人の微笑み方って

 

柔らかくてふんわりしていて

 

何だろ、心がじわじわ~って

 

満たされる感じがするんだ。

 

 

こういう感じ、インドではあまりないからね。

 

すごく嬉しい。

 

 

 

 

そして私は一人のチベット男性と出会った。

 

いつものように寺院に参拝しに行っていた時、

 

ちょうど同じタイミングで狭いゲートをくぐる所で

 

「どうぞお先に」

 

「いやいや、どうぞ・・・」

 

そんなところから私たちの会話は始まった。

 

 

 

彼の名はDORULMA。29歳。

 

17歳の頃にチベットから亡命してインドへやって来た。

 

ご両親はチベットにいる。

 

 

「1ヶ月半くらいかけて

 

ヒマラヤの山を越えるんだよ。

 

中国政府に見つかったら

 

射殺されるからね、

 

昼間はじっと身を潜めて夜にゆっくり進むんだ。

 

沢山の人が死んでいったよ。

 

ヒマラヤの山は厳しいし、危険も多いからね。」

 

 

 

チベットで僕たちは何の自由もないよ。

 

学ぶ自由、暮らす自由、生きる自由、未来を選ぶ自由・・・・

 

だから危険を冒してでもインドへ行きたかった。

 

こっちに来れば沢山の仲間もいるし、

 

無料で学校へ行けたり、

 

衣食住のすべてが保証されているからね。

 

知っているかい?

 

インドには80校のチベット人学校があるんだよ。

 

僕もソーシャルワーカーの勉強を3年、

 

仏教の勉強を2年、学校で学ばせてもらった。」

 

 

 

「この間、ブッタガヤで

 

ダライ・ラマの法話があったんだけど中国人が

 

たくさん聞きに来たって聞いたよ。

 

同じ仏教徒だもんね。

 

僕はこのことを嬉しく思うよ。」

 

 

 

 

チベットの若者は国の自由を求めて

 

焼身自殺をしているんだ。

 

ここの写真にある人々も焼身自殺をした若者だよ。

 

人生って僕が喜べば周りも喜ぶ、

 

僕が悲しめば周りも悲しむ。

 

人生ってそうやって作るものだろう?」

 

 

(ここは何で彼が

 

焼身自殺と人生の話を急に繋げたのか

 

私にはよく分からず(私の英語力の未熟さもあり)

 

何だかそのあとも

 

深く聞いてはいけない感じだった。

 

もしかしたら彼自身もそれを選ぼうとした

 

時があったのかもしれない)

 

 

 

 

 

チベットの抱えている問題や現実は

 

書物などを通じて知ってはいたけれど

 

 

DORULMAが話す

 

DORULMAの歩んできた人生や

 

取り巻く環境は

 

私の想像をはるかに超えていて

 

だけどそれらの現実を

 

ただただ、淡々と話すDORULMA。

 

 

 

 

彼は「僕たちはこんなにも・・・・」とか

 

「中国政府は・・・・・」とか

 

そんな風に自分たちを強く被害者のように言うこともなく、

 

逆に中国政府を極端に批判するのでもなく

 

ただ、そのままの事実と

 

そのままの想いを

 

語るだけだった。

 

 

 

 

 

私はふと、

 

座禅でお世話になっている

 

お寺の住職さんが話されていたことを思い出した。

 

「「足るを知る」って

 

「ただ”そのまま”あるものを見る」ということなんです。

 

例えば、座禅で足を長い時間組んでいると

 

痺れて痛くなってきますよね?

 

そんな時ただ、痺れて痛い足があると

 

いう事実だけなのに

 

「ずっと座っているから・・・・

 

筋肉がこうなってああなって・・・」と

 

事実に自分の思いや

 

今までの経験とか色んなものを

 

くっつけてしまうんですよね。

 

悩みや問題なんかも私たちはつい大きなものに

 

してしまいます。」

 

 

 

 

 

 

 

 

私とDORULMAは

 

マニ車を回しながら

 

カフェでお茶を飲みながら

 

お散歩をしながら

 

チベタン料理を食べながら

 

 

 

ふと思い出したかのように

 

言葉をつなぎながら

 

チベットの問題だけでなく、

 

アジアを取り巻くそれぞれの国の戦争概念の話、

 

日本の教育、仏教の教えについてなど

 

ありとあらゆる話と思いを交えた。

 

 

 

 

DORULMAはどんなに大きな悲しみも

 

どんなに理不尽なことも

 

どんなに苦しいことも

 

ただ、淡々と「そのまま」を見ていた。

 

ただ、淡々と「そのまま」を感じて

 

思いにしていた。

 

 

 

 

それがどれだけ難しいことか・・・。

 

 

 

私もDORULMAのように

 

どんなに大きなことを思える

 

壁や悲しみが立ちはだかっても

 

「そのまま」を見られるようになりたい。

 

そんな風に強く思ったダラムサラ滞在だった。

 

 

そして全部は書ききれないけど

 

彼の言葉や人生から学んだことも沢山あった。

 

もっと勉強して世界を知らなくちゃ。

 

日本に産まれて

 

日本で生きている私だからできることも沢山ある。

 

小さなことで嘆いてうじっている時間なんてない。

 

もっと生きなくちゃ。真剣に。

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一緒に見た夕日が綺麗だったなぁ。

 

まっさらな自分になって、 私が次にやりたいと思ったこと。

インド・ダラムサラに来ています。

 

ここはインドなのにインドじゃないみたい!!

 

牛がいないだけでこんなに歩きやすいなんて。

 

チベット人の微笑みに癒され、

 

山々の雄大な景色を眺め、

 

あぁ、幸せ・・・。

 

最近よく、旅と関係ないことばかり書いているけど

 

今日もまた旅と関係ないことを書こうと思う笑

 

いや、関係ないようで関係あるんだけど・・・・

 

 

今は1年間の世界一周の旅に出ていて、

 

来年3月で一応、一区切りするつもりでいる。

 

自分が事業をしていた6年間は子供を育てながら

 

必死で事業を行なってきた。

 

hikarinonaka-h.hatenablog.com

 

hikarinonaka-h.hatenablog.com

 

 

社会のため、子供のため、お店のため・・・・

 

 

そしてその間に何度も

 

身体を壊してしまったり

 

色々なことを考え直すきっかけが

 

重なったこともあり、

 

hikarinonaka-h.hatenablog.com

 

 

この世界一周の1年間は

 

とにかく自分のためだけに

 

時間を使い、

 

自分の人生と

 

「私」というものに一度、時間をかけて

 

じっくり向き合っていくことに決めていた。

 

 

 

 

「次、何のビジネスを始めるの?」

 

「世界一周中も何かビジネスを展開するの?」と

 

周りからも散々、聞かれたけど

 

ひとまずそこは端っこに置いて

 

 

 

「一度、自分の棚卸しを終えて、

 

色々なことが落ち着くとこに落ち着いたら

 

自然とまた私らしい夢が出てくるはず」

 

と気長に待つことにした。

 

 

 

 

おかげですっぽんぽんのそのままの自分で

 

今までの人生ともう一度

 

向き合って、

 

苦しさや悲しみもたまに伴いながら

 

一つ、一つ、大切な愛おしいものに変えて

 

私の人生の棚に戻しながら旅を続けることが出来た。

 

 

 

世界を周り、様々な人と出会い、

 

今までの友人や知人との出会いや体験も

 

積み重なって、自分の中にまた

 

新しい棚が出来てきているのを感じた。

 

 

 

すっぽんぽんのなーんにも持っていない私も

 

好きになれるようになった。

 

 

 

そして・・・

 

まっさらな自分になって、

 

私が次にやりたいと思ったことー。

 

 

 

 

 

 

社会起業家のための

 

職種を越えた繋がりと学びの場の

 

プラットホームを

 

オンライン上に作りたい。

 

 

そこでは

 

社会起業家

 

もっと自分の事業や活動が加速しやすくなる

 

ヒントや学びをもらえる場所であり、

 

そして自分自身も与え、

 

分かち合う体験を繰り返しながら

 

常に進化、成長できる場であり、

 

進むべき道や未来にいつでも立ち返ることができる場であり、

 

沢山の仲間や友人がいる場になり、

 

多様性を認め、対話から学びを深めることができる場であり、

 

自分の情熱に日々、向き合える場となり、

 

勇気や励みを日々、もらえる場になる。

 

 

そんなプラットフォームを作って

 

日本中、そして世界中で活動をしている

 

社会企業家を繋げて、

 

多様な人、学び、活動が集まる

 

大きな生命的組織を作りたい。

 

 

 

そうしたら小さな波から

 

大きな波まで様々な良い動きが

 

集合体の中で生まれ、

 

その波で日本中、世界中を

 

もっともっと元気にしていったら

 

世界はもっと加速度をつけて良くなる。

 

 

そんな未来を想像すると

 

ワクワクして止まらない。

 

そんな未来を作っていきたい。

 

 

 

どんな風にそのプラットフォームを

 

作るか、

 

どんな場だとそういう動きが起こるのか、

 

など、まだこの辺りのハード面は

 

決まってないことも

 

見えてないことも多い。

 

 

しかも元々、

 

インターネットの仕組みもよくわかってない私・・・・。

 

(やっと最近zoomの使い方が慣れてきたくらい)

 

 

何にも分からないことだらけで

 

夢はあるけどどうやって形にしていっていいか

 

私自身も分からないことだらけ。

 

 

 

だから助けて欲しいです。

 

みんなの意見が欲しいです。

 

 

 

 

あなたなら何から始める?

 

どんな仕組みを作る?

 

どんなプラットホームにする?

 

 

 

 

あなたのアイディアを

 

聞かせてくれたら嬉しいです。

 

 

 

 

あー!早く形にしていきたいなぁ。

 

ワクワクが止まりません。

 

 

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 写真はデリーの市場。

野菜がたっぷりイキイキしているのを見ると

やっぱりウキウキする!

 

良いも悪いもないから今日も私は想いを書き連ねる。

今はインド・ニューデリーにいます。

 

体調もすっかり良くなって

 

足の赴くまま、街をお散歩したり、

 

美味しいものを食べたりしながら

 

ゆっくり過ごしています。

 

私はこのブログで

 

悲しみ、戸惑い、自信のなさ、無価値感など

 

自分の中にある「ネガティヴ」な側面も、言葉も

 

恐れずにどんどん出して書いている。

 

だから私のブログはいつもちょっと暗いし、

 

昔の記憶を引っ張りだしては

 

いじいじとする感じも多い。

 

 

 

 

私は弱音なんて吐くのは

 

”弱い人間”がする

 

”愚かな行動”だと思っていたし、

 

誰かに「こんなことが悲しかった。

 

こんな苦しかったことがあった。」

 

なんて言うべきではないと思っていたし、

 

同情を誘うようなことは言いたくないし、

 

そんな自分でいたくない。

 

 ろ常々思っていた。

 

 

そして言ってしまうことで

 

”ネガティヴ”な現実まで

 

引き寄せてしまうんじゃないかとちょっと謙遜もしていた。

 

 

 

 

 

いつでも明るく。

 

いつでも前向きに。

 

「できる自分」だけを目指し、

 

「強い自分」であることに誇りを持っていた。

 

 

 

 

いつでも頑張れる人。

 

悲しみとか嫌だなって思うことも

 

ちゃんと処理できている。

 

私にはそんな感情はない。

 

 

 

 

そんな風にずっと自分の中にある

 

不安、悲しみ、怒り・・・・

 

そう言った感情にフタをして、

 

それが起こった出来事にも

 

フタをして「もう終わったこと」

 

として感じないように

 

忘れ去ろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

だけど、実際は

 

いつまでも私の中に留まり続け、

 

溜めに溜めているあれやこれやは

 

ゆっくり

 

じっくり

 

他の出来事と交わりながら

 

箱いっぱいに広がり続け、

 

ぎゅーぎゅーに膨らみ

 

フタはもう半分、開いたままでいた。

 

 

 

そして私はそれすら見ないようにと

 

必死で逃げた。

 

仕事に、子育てに、そして結婚に。

 

 

 

 

だけどそんな状態でうまくいくはずもなく

 

仕事は頑張りすぎて

 

6年間で原因不明で何度も身体を壊した。

 

 

胸の痛み、腕のしびれ、腰、パニック、冷や汗、

 

肺の痛み、手神経の痛み、

 

 

神経麻痺、緊張性頭痛・・・・

 

 

ステップアップしていく度に

 

注目されることが増えていく度に

 

いつもプレッシャーに負けそうで

 

心はいつも逼迫していた。

 

 

 

そして大切で大好きだったパートナーとも

 

いつしか傷つけあうことしか

 

できなくなっていた。

 

 

 

 

いろんなことがうまくいかなくなって

 

それでも

 

「身体を壊すような私はダメだ」

 

「できない私はダメ」

 

「弱い自分はダメ」

 

とそんな自分にバツをたくさんつけて

 

否定し続け、

 

頑張り続け・・・・

 

 

 

今年の1月に睡眠障害

 

軽い鬱病のようなものにかかった。

 

 

 

ちょうどもう、事業の売却は決まっていて

 

引き継ぎに入っていた時だったんだけど

 

私は朝礼中にスタッフの目の前で

 

「もう頑張りたくない。頑張れないよ・・・」と

 

泣き崩れてしまった。

 

 

初めて、スタッフの前で見せた弱さだった。

 

情けなかった・・・・。

 

 

私は強くあるべきリーダーとして最後までいたかったのに。

 

 

だけどもう全てが限界だった。

 

 

私の心はちぎれてしまった。

 

 

 

そして、夫から離婚の話を切り出された。

 

 

 

 

睡眠障害はますます慢性的になり

 

丸1日全く眠れないまま朝を迎えることも多く、

 

1日3時間、寝られれば良い方だった。

 

 

 

死にたくないのに死にたくなる。

 

自分がどうにかなってしまいそうで怖かった。

 

 

 

 

どうしてこうなってしまったのか。

 

仕事も結婚も人生も

 

頑張ってきたはずなのに・・・・・。

 

どうして?

 

 

 

ソファーの上で

 

膝を丸めて横になっているだけで

 

あっという間に今日も1日が終わってしまう。

 

 

 

 

そんな自分が許せなかった。

 

だけど、

 

その許せないでいる私も限界だった。

 

苦しかった。

 

 

 

 

「もういい。

 

頑張れなくてもいい。

 

弱くてもいい。

 

ダメでもいい。

 

眠れなくてもいいし

 

鬱がひどくなってもいい。

 

どんな私でもいい。

 

生きていたい。」

 

 

 

私は声に出して呟いてみた。

 

 

 

途端に、

 

ふーっと身体が楽になる。

 

私は涙とともに笑いがこみ上げてきた。

 

 

認めるってこんなに

 

簡単なことだったなんて・・・。

 

私は何にそんなに怖がって

 

しがみついていたんだ。

 

 

 

私にはどうしようもない弱さもあった。

 

どうしようもないダメなところもあった。

 

だけどそれでいいんだ。

 

そんな私をぜんぶ、受け止めて

 

愛して生きていきたい。

 

 

 

 

それから数ヶ月、

 

睡眠障害はまだ引きずっているけど

 

幸いにも、鬱病はひどくならずに

 

どうにか心も持ちこたえることができ、

 

予定通り4月から世界一周の旅も始められた。

 

 

 

 

そして今回、なぜこんな風になってしまったのか

 

色々と考えたりしているうちに

 

 

一度、自分の中にある

 

悲しみや弱さといった

 

一見、”マイナス”に思える感情を

 

一つ一つ、否定せずに

 

受け止めて

 

声に出して、

 

感じて、

 

癒してあげたいなと思うようになった。

 

 

 

感情にも出来事にも

 

「良い、悪い」なんてない。

 

どっちも同じくらい大切で

 

どっちも同じくらい必要なんだ。

 

どっちも愛してあげたい。

 

そしてどんな私でも「大丈夫」と思えるようになりたい。

 

 

 

そんな思いでこのブログを始めて

 

もうすぐ2ヶ月。

 

どんどん、楽になってきているのを

 

日々、感じます。

 

弱い自分も

 

ちっぽけな自分も

 

まだまだ裁いてしまう自分も

 

正しくあろうとしてしまう自分も・・・・

 

「そんなんでも・・・ま、いっかぁ。」

 

と思えるようになってきました。

 

すごいじゃん!!私!!!

 

どんどん自分にも世界にも

 

甘くゆるく生きれるようになったらいいなぁ。

 

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お散歩していたら心ときめく路地裏に遭遇。

生活の音、香り、風・・・全てがキラキラしていて眩しかった。

ニューデリーにもこんなところがあるんだね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガンジス川の罪と愛

バラナシ・ガンジス川

 

全ての罪を洗い流してくれると言われ、

 

祈りを捧げる場所。

 

死体が焼かれている横で

 

母親は洗濯物をする。

 

生と死が渾然一体になっている場所。

 

ヒンドゥー教最大の聖地。

 

 

 

だけど私は

 

バラナシにいた4日間を

 

ほとんどベッドの上で過ごした。

 

 

 

1日目、バラナシ駅に着いて

 

ガンジス川が近づいてくるほどに頭痛がしてきて

 

宿に着いた時には発熱をしていた。

 

私は昔から熱を出すと

 

40度を超えることが多いのだが

 

今回も久しぶりに40度を越していて

 

身体中が熱くてたまらなかった。

 

それでもずっと来たかったガンジス川

 

寝ているわけにはいかない。と

 

ガンジス川沿いを歩いたり、

 

街中を散策したりしていたんだけど

 

 

この街のエネルギーが

 

私の身体に入ってくるほどに

 

頭は重くなり、

 

どんどんと息苦しくなっていく・・・

 

倒れる寸前で宿に戻り、

 

そこから私は丸2日間、

 

何も食べず、お湯と塩を舐め、

 

ただただ、寝た。

 

 

 

 

3日目の午後に熱も引いて、

 

頭も少し軽くなったから

 

リハビリがてらご飯を食べに外に出た。

 

だけど街の空気を吸うごとに、

 

やっぱりまた頭が重くなっていく。

 

息が苦しくなってくる。

 

 

 

 

私はこの街のエネルギーを

 

受け止めきれない。

 

街の売り子の声も、

 

人々の笑ごえも、

 

ガンジス川のゆらめきも、

 

軒先きの商品さえも。

 

 

 

 

 

その日の夜、

 

ベットの上で重い頭を抱えて横になっていたら

 

母が亡くなった時のことが

 

急に頭の中に広がった。

 

 

 

 

母は私が11歳の頃、

 

病気で亡くなった。

 

ずっと入退院を繰り返していたし、

 

愛情表現というものが

 

全くなかった母だったので

 

母と私はよくドラマに出て来るような

 

「愛情たっぷりの優しくて病弱な母と

 

健気な娘」という感じではなく、

 

「いつも何考えているか分からない病弱な母と

 

同じく母の前で感情を出さない娘」で

 

親子愛も結びつきもそれほど強くなかった。

 

 

霊安室で亡くなった母を見た時も

 

「これで毎週、病院に行かなくて済むんだ。

 

友達と遊べるようになる。

 

もう退院した時に介護をしなくてもいいんだ。」

 

と悲しさよりもほっとしたことをよく覚えている。

 

 

その後の人生でも

 

母親がいないことを別段、

 

悲しんだこともなく、

 

悔やむこともなかった。

 

 

 

 

 

だけど私は今、母が亡くなった時の

 

霊安室にいて母の遺体を見て

 

小さくうずくまって泣いている。

 

 

 

母は首元にその年の母の日にプレゼントした

 

山吹色のスカーフを巻いていた。

 

イトーヨーカ堂で母に

 

どんな色が似合うのか

 

婦人雑貨コーナーをぐるぐると

 

なんども周りながら

 

考えに考えて選んだスカーフ。

 

 

「次に退院する時に巻いてね」

 

とプレゼントしたものだ。

 

 

 

あの時、悲しまないようにと

 

大したことではないと

 

必死に隠していた想いが今になって

 

吹き出してくる。

 

 

 

 

「どうして死んじゃったの?

 

これは次に退院する時に巻いてねって言ったじゃん。

 

巻く日を間違えてるよ。

 

どうして死んじゃったの?

 

私が嫌だなって思いながら介護してたから?

 

病室に行く時間が少なかったから?

 

家の仕事、ちゃんとやらない日があったから?

 

ごめんなさい。お母さん。

 

私のせいで死んじゃったの?

 

ごめんなさい。

 

ちゃんとするから

 

もっとしっかりするから

 

家のことも、妹の世話も、お母さんの世話も。

 

だから死なないで。」

 

 

 

 

 

私はもう11歳の子供ではなく、

 

33歳といういい大人で、

 

ここは霊安室ではなく、

 

バラナシの宿のベッドの上だって

 

わかっているのに

 

あの時の私の

 

叫びが

 

悲しみが

 

悔しさが

 

私の心を支配する。

 

 

 

もっとお母さんの笑った顔が見たかった。

 

もっとお母さんに幸せな姿を見たかった。

 

病気で苦しまないで人生を生きて欲しかった。

 

もっと生きてて欲しかった。

 

愛してるって抱きしめて欲しかった。

 

 

 

 

とめどなく涙が頬をつたう。

 

 

 

母が亡くなったことを

 

自分のせいだと思っていた?

 

母が好きだった?

 

母に幸せになってほしかった?

 

私は悲しかった・・・・?

 

 

 

 

今までそんな想いを持っていることすら

 

私自身、全く思いもよらなかった。

 

 

 

だけど私の中の11歳の私は

 

ずっとそんな風に自分を責めて

 

誰にも言えないまま、悲しさを

 

ひたすら抱えていた。

 

 

 

 

気がついてあげられなくてごめん。

 

ううん。

 

気がつかないふりをしていてごめん。

 

 

私も一緒に受け入れるよ。

 

 

 

私はいつの間にか泣き疲れて寝ていたらしく

 

気がついたら朝だった。

 

 

 

バラナシ4日目。

 

まだ少し頭が重いけど

 

幾分、すっきりしていた。

 

(あれだけ泣けば当たり前か笑)

 

 

 

やっぱり外に出る気にはならずに

 

夕方までゆっくりかけて準備をして

 

デリーに向かう夜行列車へと急いだ。

 

ガンジス川が遠ざかっていく。

 

街の雰囲気が変わってくる。

 

どんどん息を吸うのが軽くなってくる。

 

体調もほぼすっかり元どおりになってきた。

 

 

 

 

本当はバラナシでしたいことが沢山あった。

 

ガンジス川から昇る朝日も見たかったし、

 

ボートにも乗りたかった。

 

ブッタが初めて教えを説いたとされるサルナートも行きたかった。

 

インド一美味しいと言われるラッシーも飲みたかった。

 

あー・・・写真ももっと撮りたかったなぁ。

 

「ザ・インド」ってものがぜんぶ街につまっていたもんなぁ。 

 

 

 

 

だけど私はそのどれも出来ずに

 

バラナシのエネルギーに揉まれ、

 

発熱し、

 

体調を崩し、

 

20年越しの想いを吹き出し、

 

ベットの上で子供みたいに泣きじゃくっただけだった。

 

 

 

 

だけど私はそのためにここに来たんだと思った。

 

バラナシのエネルギーの端っこにいた

 

11歳の頃のうずくまって悲しんでいる私を

 

心の中にそっと連れ戻すために。

 

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このガンジスの流れのように

これからゆっくり自分が罪と思ってしまっていたことを

変えていきながら歩んでいきたいな。  

 

 

 

家族と愛

hikarinonaka-h.hatenablog.com

 

と、その続き

 

hikarinonaka-h.hatenablog.com

起業した当時はひどいもんだったなぁ。〜始まりから売却まで〜

今はバラナシにいます。

 

バラナシ着いた途端から発熱・・・。

 

とほほ。

 

ゆっくりしております。

 

 

今日は前回の記事の続きを書きたいと思う。

hikarinonaka-h.hatenablog.com



Part.2 立ち上げと苦難

 

1度目の事業

~始まりから売却まで~

 

 

 

軽トラックから小さな出発をした事業は

 

あっという間に行き詰まった。

 

前回の記事でも書いたけど

 

私はそもそも経営の勉強も全くしたことがなく、

 

かけ算すらうろ覚えで

 

本当に情熱だけで突っ走って始めてしまってたから

 

当たり前と言ったら当たり前なんだけど・・・・。

 

 

 

朝、農家さんを回って

 

オーガニック野菜を積みこみ、

 

販売場所を貸してくれるパン屋さんの

 

軒先きでお店を開く。

 

みんな、興味本位でちらっと見に来るけど

 

中々、購入に繋がらない。

 

「今日はこの”あやめ雪かぶ”が美味しいですよ~!」

 

持ち前の笑顔で営業トークをしても

 

「また来るね~」とお客さんは去って行ってしまう。

 

ずっと外だから寒さで

 

足の感覚がなくなってくる。

 

必死に声をかけるも、皆、足早に通り過ぎていく。

 

寒さと虚しさの中、今日も1日が終わってしまった。

 

後ろを振り返ると

 

売れ残りの野菜がまだ沢山、トラックに並んでいる。

 

そんな毎日が続いた。

 

売り上げは3000円とかそんなレベル・・・。

 

 

 

1ヶ月が経った。

 

貯金額がすごい速さで減っていく。

 

胃が痛い。どうしよう。どうしよう。

 

不安で押しつぶされそうだ。

 

 

 

2ヶ月目、

 

少しづつ売り上げは増えていってるけど

 

全然、足りない。

 

どうしたらいいんだろう・・・

 

途方に暮れる。

 

 

 

3ヶ月目、ついに私の貯金額は数千円になった。

 

「やばい・・・来月の家賃、払えないじゃん」

 

ふと目をやると娘の貯金通帳があった。

 

毎年、娘宛てにもらうお年玉を貯めていたものだ。

 

娘を呼ぶ。

 

「えーーーっと。お願いがあるんだけどね。

 

ママさ、次の家賃が払えなくなっちゃって・・・

 

申し訳ないんだけど・・・

 

乃愛の貯金、使ってもいいかな?」

 

すると娘は、まるでおばさんのように

 

手を振りながらこう言った。

 

「全然、いいよいいよ~!

 

気にしないで~~~!

 

私も一緒に住んでるんだし~~~~!」

 

 

私はこの一言がキツかった。

 

 

まだたったの6歳で

 

親に気をつかって、

 

「私も一緒に住んでいるんだし~~!」なんて

 

大人びた口調で

 

言わせてしまった娘の気持ちを考えると

 

親として不甲斐なくて、申し訳なくて

 

涙がドバッと溢れた・・・・。

 

「”オーガニックで家族と子供たちを幸せにしたい!”

 

なんてデカイこと言っておいて、

 

自分が本来守るべき、一番幸せにしたい娘にすら

 

何もできてないじゃないか・・・。

 

もう娘にこんな気は一生遣わせたくない。

 

いや、遣わせない」

 

 

 

私が本気で自分のビジネスに向き合った瞬間だった。

 

 

それからは怒涛の日々だった。

 

 

お金がないので図書館で

 

マーケティング、セールスHowto本、

 

経済学、社会学、心理学・・・・

 

 

一つ一つ、自分の事業にヒントがありそうなものを

 

片っ端から借りて、読んで次の日にすぐ仕事で実行。

 

 

自分のターゲットはどこで、

 

顧客は何を求めているのか、

 

どんな不満や欲求を抱えているのか。

 

記録、数値化・・・何が必要で何が必要ないのか。

 

 

 

 

 

 

 

それと同時にオーガニックの知識や

 

歴史、現在の現状、環境問題、

 

身体と食の影響や知識も

 

学び始め、

 

 

 

売れ残った野菜たちを使って研究も始めた。

 

人参の臭さってどこから出ているんだろうか?

 

玉ねぎって繊維に沿うのと沿わないのでは

 

どっちが美味しい?

 

もっと簡単に長持ちする保存方法はないのかな?

 

もっとお母さんたちが野菜を調理しやすくなるコツは

 

どこにあるんだろう?

 

 

 

・・・・

 

娘が夜、寝てから朝起きるまでが

 

貴重な私の勉強と実践タイム。

 

 

昼間はお客さんにヒアリングしながら

 

その人に合った提案をし続けた。

 

 

「子供が人参嫌いで困っているんですか?

 

そうしたらこうすると人参臭さがなくなって食べやすくなりますよ」

 

「椎茸をすぐダメにしちゃう?

 

そしたら冷凍してみて!栄養価も旨味も3倍になるんですよ~!」

 

「小松菜の一番、美味しい食べ方って知ってますか?」

 

 

 

そのうち、

 

「あのお店に行くと

 

色々な野菜や身体の知識を教えてくれて助かる」

 

「あそこの野菜で子供の野菜嫌いが治った」

 

「簡単で美味しい食べ方を教えてくれるから献立に迷わなくなった」

 

という風にどんどんお母さんたちが

 

集まってくれるようになり、

 

行列ができる日も多くなった。

 

 

 

そしてあるお客さんから

 

「あなたの教室とかないの?私、もっと知りたいわ」

 

と言ってくださったことをきっかけに

 

オーガニック野菜の料理教室も立ち上げ、

 

移動販売と料理教室の2本軸が始まり、

 

やっとやっと生活費も安定して

 

稼げるようになった。

 

そしてファーマーズマーケットの運営や

 

講演活動など

 

活動の場も、広がり続けて

 

小さな軽トラックから2年半後、

 

2013年4月

 

店舗を構えることが出来た。

 

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 写真はオープニングの時。

 

 

 

店舗になってからも

 

大変なことは山ほどあったし、

 

日々、沢山の新しい問題にもぶつかった。

 

売り上げがうまく伸びない時もあった。

 

だけど

 

長年のお客様たちがいつも

 

ありがたすぎる言葉で励ましてくれ、

 

 

店長で頑張ってくれた社員を始め、

 

アルバイトスタッフがお店をサポートしてくれ、

 

彼女らの力とアイディアでお店を楽しく

 

素晴らしいものに成長させ続けてくれたり、

 

 

実直に真面目に野菜や製品を作りづつけてくれる

 

農家さん、職人さんたちにも沢山の学びと支えを頂いた。

 

 

諸先輩方、友人たちにアドバイスを沢山頂いたり・・・。

 

家族にも沢山、支えてもらった。

 

 

色々な方に店舗を育て頂き、経営し続けることが出来た。

 

 

そして2017年1月

 

私は地元の企業さんにオーナー権を売却して

 

私は世界一周へ、娘は山村留学へ。

 

2人ともずっと夢だったことに

 

それぞれ道を選び、

 

新しい一歩を踏み出した。

 

私33歳、娘13歳。

 

小さな出発からあっという間に7年が過ぎていた。

 

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今年の3月、娘の卒業式にて。親子そろって卒業だったね。

 

 

関連記事

hikarinonaka-h.hatenablog.com

 

このブログで一番始めに書いた記事はこっち

 

hikarinonaka-h.hatenablog.com

 

 

無い無いづくしの私が起業を決めた理由〜始まりから売却まで〜

今はインド・バラナシにいます。

 

ブッタが悟りを開いたとされる

 

菩提樹の下で座禅を組むことができて感無量!!!!

 

 

 

今日は旅とは関係ないんだけども、

私の起業についてちょっと書きたいと思う。

 

起業を決めた時の私は

 

 

◆学歴なし(中学校もほとんど遊びほうけて高校は3ヶ月で中退)

◆資格なし(当時は運転免許書だけ!)

※現在は日本オーガニック推進協議会認定

オーガニックコーディネーター資格保持

 

◆シングルマザー

◆資金なし

 

の何にもなし状態。

 

そんな私が、なんで起業を決意したのか、

 

なぜオーガニックという道を選んだのか、

 

始まりから売却までのことを

 

自分の棚卸しを含めて

 

少し書いてみたいと思う。

 

 

 

 



Part.1 始まりのはじまり。

 

1度目の事業

~始まりから売却まで~

 

 

 

 

 

私はオーガニックのショップとスタジオの

経営を6年し、

2017年の1月に企業にオーナー権を売却した。

 

 

 

ショップでは無農薬・無化学肥料の野菜、

オーガニックの食品、日用品、コスメなど

全国から厳選した商品を販売、

 

スタジオではオーガニック野菜の料理教室、

薬膳、ローフード、アーユルヴェーダなど

身体を整える講座やイベントを開催し、

 

 

 

私たちは

「オーガニックから

家族に幸せと笑顔の源を届けること」をモットーに

 

ショップとスタジオの両方で

オーガニックを楽しく続けられる情報を発信し続けた。

 

 

私自身は経営をしながら

 

スタジオの講師や

 

小学校や市の関係でお母さんや高齢者向けに

食と体の講座を行ったり

 

企業の研修などでオーガニックの知識を伝えたり、

 

起業家として登壇したり、

 

保育園や幼稚園の子どもたち向けに

 

食育イベントを行ったりと

 

外部向けの仕事もよく引き受けていた。

 

(”たりたり”ばっかり笑)

 

 

 

 

よく、「昔からオーガニックが好きだったんですか?」

 

と聞かれるのだけど

 

私は自分の子供を授かるまで

 

コンビニ弁当、レトルト品、惣菜だけで生きていた。

 

ファミリーマートのおろし竜田弁当が

 

大好物だったし、

 

マックのグラコロバーガーは私の冬の風物詩だった。

 

料理も、麻婆豆腐は”麻婆豆腐の素”で作るものだと

 

本気で思っているレベルだった。

 

(ひどいよね笑)

 

そして

 

「オーガニックなんてストイックでめんどくさいもので

 

私には無関係の世界のもの」と

 

ちょっと毛嫌いもしていた。

 

 

 

そんな私が20歳で母親になり、

 

子供の身体のことを考えて

 

少しずつ手作りの物を増やし、

 

”なんとなく身体に良さそう”な

 

オーガニックの物も

 

気になりだして、

 

ちょっとずつ選ぶようにも

 

なってきたんだけど

 

 

当時の”オーガニック野菜”は

 

いつもちょっと萎びていて、

 

あんまり鮮度も良いように見えず、

 

値段が高い割に美味しさもあまり感じられず、

 

けど身体に良いらしいから・・・と

 

なんとなくまだよく分からないまま

 

買っていた頃だった。

 

 

 

 

そして2010年の春。

 

 

たまたまご縁で

 

無農薬・無科学肥料の野菜を作っている農家さんの

 

畑に遊びに行く機会があった。

 

畑を見せて頂いている時に、

 

青々とツルを伸ばし、ぷっくりとぶら下がっている

 

スナップエンドウの畑が目の前に広がった。

 

農家さんはプチッともぎ取って

 

「ほらっ。これそのまま食べてごらんよ」と

 

私に差し出してきた。

 

 

生のままスナップエンドウを食べるなんて

 

初めてだ。

 

茹でなくても大丈夫なのかな?

 

お腹、壊したりしないのかな?

 

おそるおそる、ひと口囓る。

 

びっくり・・・・・。

 

口いっぱいに広がる水々しさと甘み、青々さ。

 

「なんでこんなに美味しいの・・・?

 

今まで食べていた”オーガニック野菜”とは全然、違う・・・。」

 

そしてコクンと飲み込むと

 

お腹の中がぐわーーーって喜びだした。

 

細胞ひとつひとつが

 

「生きている食べ物がきたぞーー!」って

 

イキイキと満ち溢れて始めたのを感じた。

 

 

「これが本来の生きている食べ物のパワーなんだ・・・

 

 

食べ物って生きているんだ。

 

 

食べる”って本来、こんなに喜びに満ちた行為なんだ・・・・」

 

 

生まれて初めての感覚だった。

 

 

「こんなに生きるパワーが沢山詰まった野菜を、

 

まだ体が素直な子どもたちが食べ続けたら、

 

どんなに生きる土台が強い子どもが育つのだろうか!?

 

命の源になるこの野菜を

 

子供達に伝えて続けていきたい。

 

食卓に当たり前のように並ぶ未来を作りたい!!」

 

 

 

当時の私はシングルマザーで

 

娘と2人でアパートに住んでいた。

 

生活をしていけるかどうかは

 

全て、私の収入にかかっていた。

 

最終学歴は高校中退、

 

資格は運転免許だけ

 

経営なんてしてこともない。

 

「食べていけなかったらどうしよう・・・」

 

そんな不安も沢山あった。

 

 

 

だけど私は、自分が思い浮かべた未来の中で

 

日本中の子供たちと家族が笑顔に包まれて

 

食卓を囲んでいる様がありありと浮かんで

 

日本全体がもっともっと元気に豊かになる未来像に

 

ワクワクしっぱなしだった。

 

 

 

 

 

私はそれから程なくして

 

小さな軽トラックを買った。

 

クリーム色に車体を塗り、

 

赤と白のストライプの幌をつけ

 

木箱を積んで

 

オーガニックの野菜の移動販売を始めた。

 

2010年10月。

 

私が26歳、娘6歳。

 

小さな出発だった。

 

 

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めっちゃ懐かしいわーー!

一緒によく頑張った相棒。

インドハンセン病から考える差別について

インド 西ベンガル州

 

ハンセン病コロニーの自立支援活動を行なっている

NPO法人「わぴねす」

http://wappiness.org

 

「わぴねす」は社会から差別と排除を受けている

 

ハンセン病コロニーの人々が抱える諸問題を

 

ワークキャンプ事業部、就労支援事業、

 

教育支援事業、インド雑貨やさんなどを通して

 

解決をしていこうと活動をしている団体だ。

 

 

 

ちょうど、友人が理事になったこともあり、

 

今回、私はインドで活動をしている

 

代表のえりこさんと1週間ほど

 

行動を共にさせてもらい

 

 

ビシュナプールコロニー、

 

マニプールコロニー、

(コロニーとは定着村という意味)

 

そしてバラブンにあるNGO団体、

NGO Indira gandhi leprosy foundation、

NGO FPSA

 

などを訪問しながら

 

それぞれの取り組みの仕方や

 

違いなどを見させていただいた。

 

 

 

ハンセン病とは末端神経を犯す感染症で、

 

皮膚の感覚がなくなり、筋肉が硬直してくるため

(腕や指が曲がって動かなくなるなど)

 

指先などの感覚がなくなってしまうから

 

火傷や怪我を引き起こしやすく、

 

壊死して切断せざる負えなくなるケースがある。

 

昔は治療法が確立していなく、

 

ほとんどの人が外見に著しい後遺症を

 

抱えることになり、差別の要因になった病気だ。

 

 

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 (NGO Indira gandhi leprosy foundationのホスピタルにて撮影)

 

身体的影響やダメージだけでなく、

 

表面的に分かるものだから

 

周りからの差別、家族との離別、社会との分断・・・と

 

感染者は幾重に苦しむことになる。

 

 

 

 

私はこの「差別」と不平等の始まりは

 

私たちが当たり前に持つ「不安」から

 

だと思っている。

 

 

ハンセン病患者を見た時に

 

ハンセン病の知識がない第三者は

 

「もし、自分もそうなってしまったらどうしよう」と

 

自分ごととして捉えることで不安を感じ、

 

その不安から解消されたいから(決別したいから)

 

線引きをして差別をする。

 

 

 

もし、私がハンセン病について

 

解明されてない時代に

 

ハンセン病の人と出会うことがあったら

 

「私は差別をしない」と言い切れるだろうか・・・。

 

きっと同じように差別をして

 

しまうのではないか・・・と思う。

 

 

 

人は不安に弱い生き物で、

 

だから分からないことや、

 

解決出来ないこと、

 

理解が出来ないことを

 

「神」という存在を作り出したり、

 

死後の世界の物語を作ったりして

 

「安心」したいのだと思う。

 

 

 

ハンセン病もまだ解明されていない時は

 

業病や天啓病など言われていた時もあるしね。

 

(だからその人の人格否定、家族を含めた差別に

 

繋がっていった経緯もある)

 

 

 

全ての始まりは人間の不安からきている。

 

私たちが差別を選ばないようにしていくためには

 

私たちの心の中にある不安が

 

小さくならない限り無くならないと思った。

 

 

 

 

不安だからこそ、目に見えやすいものだけで

 

判断を全てしてしまったり、

 

線引きをすることで自分を安心させようとする。

 

紙幣、物資、情報・・・・

 

経済だって全部そう。

 

 

障害、差別、マイノリティ・・・

 

社会構造だって全部そう。

 

 

では、どうしていったらいいのか

 

私なりに考えてみた。

 

 

 

一つは自分の中に「不安がある」ということを認識すること。

 

不安から差別を生み出してしまう

 

愚かな心を持っていることを

 

自覚すること。

 

これ、忘れがちだけど

 

私たちは認識し続けなければいけない。

 

 

 

二つ目は

 

金子都容書「ボランティアーもう一つの情報社会」の

 

中に書かれていた

 

自発性パラドックスに向かうまでの

 

バラネラブルの話がヒントになると思う。

 

 

 

ボランティアについて書かれていた本で

 

ちょっと遠回りになるかもだけど

 

この話に通じるところがあると思うから

 

引用しながら少し話していきたい。

 

 

 

本の中でボランティアの魅力についてこう書かれていた。

 

 

「ボランティアは”助ける”ことと

 

”助けられる”ことが融合し、

 

誰が与え、誰が受け取っているか

 

区別することが重要ではないと思える

 

不思議な魅力に溢れた

 

関係発見のプロセスである。

 

この相互依存の関係性の中から

 

理解を超える意外な展開が豊かな結果をもらたらす」

 

 

 

これが光の部分。

 

そして光があれば影もある。

 

その後に金子はこう書いている

 

 

 

「それが分かるからこそ、

 

ボランティアをする人、

 

見ている人を不安にさせる。

 

人はコントロールされていないもの、

 

限度が定まってないこと、

 

管理出来ないものを恐ろしいと感じることがあるからだ。」

 

 

(上で”差別の始まりは不安”と

 

私が言ってること同じ感じ)

 

 

 

ちょっと分かりずらいかもだけど

 

ボランティアの魅力は

 

相互依存の関係性の中で

 

生まれるから過程も結果も

 

自分ではコントロールできないし、

 

”豊かな”結果も自分の理解を超えてくるもの。

 

 

だから不安や恐ろしさを同時に感じると言っていて、

 

その矛盾と葛藤を

 

ボランティアをしている一人一人は

 

常に抱えている。

 

そのことを「自発性パラドックス」と

 

金子は言っているんだけど

 

それを踏まえて、

 

 

「ボランティアとしての

 

関わり方を選択するということは

 

自発性パラドックスの中の渦中に

 

自分自身を投げ込むこと、

 

自分をひ弱く、

 

傷つきやすく、

 

他人からの攻撃を

 

受けやすい状態(バラネラブル)に

 

自分自身をした状態で

 

ボランティアとして相手や事態に関わることで

 

窓は開かれ、頰に風が感じられ、

 

意外な展開や不思議な魅力ある関係性がプレゼントされる」

 

 

 

バラネラブ状態の

 

「自分をひ弱く、他人からの攻撃を受けやすい状態にする」って

 

とても不安だし、怖くて、

 

ついつい私たちは常に”窓”を閉めてしまいがちになる。

 

だけどその一歩を勇気を持って踏み出して、

 

自分自身をバラネラブルの状態にする大切さを

 

金子は書いている。

 

 

 

 

これは人や社会への姿勢も

 

同じなのではないだろうか。

 

 

 

 

なのでまとめると・・・

 

私たちが「差別」という行為を選ばないためには

 

 

 

1、自分の中に不安から差別を生み出してしまう

 

愚かな心を持っていることを

 

自覚すること。

 

 

2、勇気を持ち、自分をひ弱く、傷つけやすく、

 

他人からの攻撃を受けやすい状態に自分自身の窓を開け続けること

 

 

3、バラネラブルナ状態のまま、

 

出来事や相手と関わることで

 

関係発見のプロセスが始まる。

 

 

4、そして相互依存の関係性の中から

 

理解を超える意外な展開が豊かな結果をもらたらす

 

 

 

ということだと私は思っていて、

 

差別は差別をされる人だけでなく、

 

差別をする人にも

 

大きな影響があるんだと思う。

 

 

だから、一人一人がこれらを行なっていけば

 

差別される人だけでなく、する人にも

 

素晴らしいプレゼントが起こるって思っていて

 

そしたら社会全体ももっと生きやすく、

 

本来の意味での豊かさを

 

実感できるのではないかな。

 

 

 

 

 

えりこさんは

 

この活動を始めたきっかけを

 

話していた時にこう言っていた。

 

 

「人間って面白いなって思うんだ。

 

人は、人に寄り添って

 

受け入れ合うこともできれば、

 

逆に差別をしてマイノリティを排除する

 

残酷なことも出来てしまう。

 

そしてそれを私たちは自らで

 

どちらを選択するか選ぶことができる。

 

だから良い方を選び続けることができる

 

社会にしたいんだ。」

 

 

私たち一人、一人もそんな未来を

 

今この瞬間から選んで生きていきたい。

 

 

f:id:hikarinonaka-h:20171123210603j:plainえりこのパワーはハンパなくって本当、尊敬する。